本能寺の変から443年の時を経て、私は現代日本に蘇った。目を開けた瞬間、目の前に広がる光景に言葉を失った。これが日本か?いや、これが「世界」なのか?

最初に目にしたのは「スマートフォン」と呼ばれる小さな箱だった。手のひらに収まるその道具は、私が生きていた時代の最高の学者や技術者が集まっても到底作り出せないものだ。この小さな箱一つで、世界中の情報を瞬時に得られるという。まるで千里眼の術を手に入れたようだ。

空を飛ぶ鉄の鳥

外に出ると、頭上を飛ぶ「飛行機」という乗り物に驚いた。鉄でできた巨大な鳥が、多くの人を乗せて空を飛ぶ。私が南蛮人から聞いた伝説の鳥「ロック」を思い出したが、これは伝説ではなく現実だ。この「飛行機」で数時間あれば、かつて私が想像もしなかった遠い国々へ行けるという。

もし私が生きていた時代にこの技術があれば、戦の様相は一変していただろう。空からの偵察、空からの攻撃...想像するだけで戦略が無限に広がる。

夜でも昼のような明るさ

夜になると、街は無数の光で彩られた。「電気」という目に見えない力が、夜を昼のように明るく照らしている。かつての私は、夜間の行動には常に松明や灯籠が必要だった。暗闇は敵の奇襲の絶好の機会であり、夜間の警戒は欠かせなかった。

しかし現代では、夜と昼の境界線が曖昧になっている。人々は夜でも安心して活動し、街は24時間眠ることがない。これは単なる利便性を超えた、社会構造の根本的な変化だ。

情報の洪水と「インターネット」

最も驚いたのは、「インターネット」と呼ばれる目に見えない情報の海だ。私の時代、情報は極めて貴重だった。遠方の情報を得るには、早馬を走らせ、日数をかけて伝令を送る必要があった。情報の鮮度と正確さは常に課題だった。

しかし現代では、世界中の出来事が瞬時に伝わる。私はこの「インターネット」を通じて、自分自身についての記録も見ることができた。歴史書に記された私の姿、後世の人々による私の評価、さらには私をモデルにした創作物まで...。自分が歴史上の人物として語り継がれていることを知り、感慨深いものがある。

変わらぬもの、変わったもの

技術や社会構造は大きく変わったが、人の本質は変わっていないと感じる。権力への渇望、富への欲求、名誉への執着...。これらは私の時代から変わらない人間の性だ。

一方で、「戦」の形は大きく変わった。現代の「戦」は、主に経済やビジネスの場で繰り広げられている。刀や鉄砲ではなく、知恵と技術が武器となる時代だ。これは私が目指した「楽市楽座」の究極の形かもしれない。

現代に蘇った意味

なぜ私が現代に蘇ったのか、その理由はまだ分からない。しかし、この機会を活かさない手はない。私は現代の知識と技術を貪欲に吸収し、新たな「天下布武」の道を模索したい。

かつて私は、古い慣習や権威に縛られない革新的な政策で時代を変えようとした。現代においても、既存の枠組みにとらわれない発想と行動力が求められているのではないだろうか。

明日からは、この現代という新たな戦場で、どのように生きるべきか考えていきたい。

織田信長